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長泉町内の観光スポット-025 牛ヶ淵 [観光スポット]

私の住んでいる静岡県駿東郡長泉町は伊豆半島の付け根辺りに位置しています。
伊豆半島は本州で唯一フィリピン海プレートの上にあります。伊豆半島の元は約2000万年前の南海の海底火山でした。そして200~100万年前には南洋に浮かぶ火山島になり、プレートの北上に伴い100~60万年前にその火山島が本州に衝突し、その後も火山活動を繰り返しながら60~20万年前に現在の伊豆半島の形になったそうです。そのため長泉町には昔の火山活動の名残が多く存在します。また長泉町には旧石器時代から人が住んでいた跡が有ったり、鎌倉時代・戦国時代の旧跡や言い伝えが多かったり、近代では丹那トンネルができるまでは東海道本線の三島駅があったので各時代の観光スポットが揃っていてます。
そこで、散歩の途中で立ち寄った町内の観光スポットをここに紹介しようと思います。
不定期な紹介になりますがお楽しみください。
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牛が淵ー1.JPG
以前報告した幻の城『長久保城』の南東に位置し、梅の木沢川が黄瀬川に合流する地点から黄瀬川を少し上った所に『牛ヶ淵』と呼ばれる場所があります。
牛ヶ淵の上流は富士山溶岩(三島溶岩)で覆われています。また滝も淵も溶岩でできています。昔はこの下流に屏風を立てた様な岩”屏風岩”があったそうですが護岸工事で壊されてしまったとのことです。多分、大きな柱状節理だったと思われます。長泉町内では柱状節理は愛鷹山の位牌岳の頂上付近でしか見かけないのでとても残念です。

牛ヶ淵の滝は落差は4m程で幅は150m程です。この滝の規模に比べて淵は広く、深く、雄大な景観です。

牛が淵ー2.JPG
黄瀬川はいつもは穏やかに流れる川なのでこのような景観を楽しむことができますが、ひとたび豪雨に見舞われると濁流が渦巻き荒れ狂う川です。
そのためかこの淵には名の由来になった悲しい伝説が残っています。
「戦国時代のある豪雨の夜、長久保城が武田軍の攻撃を受け、善戦むなしく落城してしまった。城の萩姫は数人の兵士と女中とともに豪雨の中を牛車に乗りそっと抜け出し、この淵に来たところで牛車が足を踏み外して、牛車もろとも濁流渦巻くこの淵に沈んだ」という哀話です。

なおこの伝説には元になったと思われる3つの話が郷土の歴史書にありました。

一つ目は「大永6年(1526年)7月、北条氏綱が長久保城を攻めた。時の長久保城主 長久保親仲は今川氏親の援軍が来る事を信じて籠城すること13日、いよいよ落城となる前に300名の兵を逃がすために、この年19になる登羅姫を神に捧げる生贄とした。巡礼姿の登羅姫は紅の手綱に金の鞍を置いた黒牛に乗り城門を出て、敵味方注目の中、黒牛の背にあるまま長久保城に向かって合掌し、そのまま淵の深みに入水して消えていった」

二つ目は「永禄元年(1558年)12月28日、武田軍の急襲があり、時の長久保城主 水野忠祐は善戦するも落城し、19になる娘の萩姫は城の高所より黄瀬川に身を投げて自害した」

三つ目は言い伝わっている話そのままの「永禄元年(1558年)12月28日、武田軍の急襲があり、時の長久保城主 水野忠祐は善戦するも落城し、その際に愛娘の萩姫を牛車に乗せて逃がしたところ、牛車もろとも淵に転落して悲惨な死と遂げた」

個人的な見解ですが、牛ヶ淵の伝説は歴史書に残る一つ目と二つ目の事件の内容が似ているので混在してしまった上に、淵に近寄る怖さを強調し人が淵に近づかない様にするために自害を転落事故に変えて出来上がったのではないかと推測します。

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長泉町内の観光スポット-024 長久保城-2 [観光スポット]

私の住んでいる静岡県駿東郡長泉町は伊豆半島の付け根辺りに位置しています。
伊豆半島は本州で唯一フィリピン海プレートの上にあります。伊豆半島の元は約2000万年前の南海の海底火山でした。そして200~100万年前には南洋に浮かぶ火山島になり、プレートの北上に伴い100~60万年前にその火山島が本州に衝突し、その後も火山活動を繰り返しながら60~20万年前に現在の伊豆半島の形になったそうです。そのため長泉町には昔の火山活動の名残が多く存在します。また長泉町には旧石器時代から人が住んでいた跡が有ったり、鎌倉時代・戦国時代の旧跡や言い伝えが多かったり、近代では丹那トンネルができるまでは東海道本線の三島駅があったので各時代の観光スポットが揃っていてます。
そこで、散歩の途中で立ち寄った町内の観光スポットをここに紹介しようと思います。
不定期な紹介になりますがお楽しみください。
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”長泉町内の観光スポット-019 長久保城”で紹介した長泉町長窪地区にある長久保城趾の続報です。

長久保城ー6.JPG長久保城ー7.JPG
この”長久保城趾”の碑は本丸跡地から北に数十mの場所に移設され、現在は国道246号線沿いにありました。
長久保城趾の土塁は新幹線の土手や国道246号線の土手に使うために崩されてしまい今はほとんど残っていないので幻の城となっていますが、戦国時代には豊臣秀吉や徳川家康をはじめ名のある武将が訪れて軍議を図った戦闘の前線基地でした。
由来の石碑によると、長久保城は鎌倉時代の初期に当時の東海道の要所である足柄を治めていた竹下氏(藤原家の一門)が現在の長泉町長窪地区の丘に『砦』を築いたのが始まりだそうです。

長久保城ー4.JPG
長久保城は丘の上に建つ平山城で天守閣は無かったようです。西は長窪谷と桃沢川と谷津川で、南は黄瀬川で、東は梅の木沢川で隔てられ、北は愛鷹山が聳えていて、自然の地形を生かした攻められ難く守りの堅い城だったようです。
また当時は駿河の国から関東方面に出るには箱根街道か足柄街道のどちらかを通らねばならず、険しい箱根の嶮を避けるには必ず長久保城下の足柄街道を通るしかないので長久保城は要衝の地でもあったでしょう。
そのために戦国時代には今川氏・北条氏・武田氏・徳川氏などで争奪が繰り返されたのだと思いました。
長久保城は長泉町を通る国道246号線の南側にあるショッピングモール(名称ウェルディー)辺りが本丸、国道246号線の北側の工業所辺りが二の丸、その西にある長泉北小学校辺りが三の丸だったようです。
そうすると城は東西方向に約600m、南北方向に約500mの楕円形をした相当大きなものだったと考えられます。

長久保城ー9.JPG
過去に存在した長久保城の南西端に位置する黄瀬川の端から見るとこんな感じです。
正面奥の林は現在の城山神社で昔の西の砦、その手前の大きな建物がショッピングモールで昔の本丸、写真の下から左に上がる様に流れるのが黄瀬川、少し見難いですが写真の右端の橋の下を流れて黄瀬川と合流するのが梅の木沢川です。こんな写真からも、長久保城は川に囲まれた丘に立っていたから難攻不落の城だったのだろうとわかります。

長久保城ー8.JPG
ショッピングモールの南東端にある派出所の裏に”長久保城諸霊供養之碑”が建っていました。古いものではなさそうですが戦国時代には多くの兵士が黄瀬川や梅の木沢川や桃沢川を越えようと傷つき死んで逝ったのだろうと想像できます。なお写真はありませんが長久保城趾の南にある桃沢川に架かる”高橋”橋の辺りは高い崖になっているので城争奪の攻防が激しかったと言い伝えられており、そこから程近くの黄瀬川の淵は”鎧ケ淵”と呼ばれています。名の由来は、戦闘で血に染まった鎧を洗ったからとか壊れた鎧を沈めたからとか言われています。(”長泉町内の観光スポット-008 鎧ヶ淵”を参照ください)

城山神社ー1.JPG城山神社ー4.JPG
ここが城山神社です。今は神社であり公園にもなっていて長泉町民の憩いの場所となっていますが、長久保城の痕跡を見つける事はできませんでした。

IMG_0790.JPG長久保城ー10.JPG
但し、丘に建つ城山神社やそこから黄瀬川を隔てた南に位置する長泉北中学校には急な斜面が残っています。確認できませんでしたがもしかすると長久保城の土塁かもしれません。

長久保城ー11.JPG長久保城ー12.JPG
城山神社から北に上がり三の丸があった現在の長泉北小学校の正門から道を隔てた場所に長久保城の土塁と空堀の跡があります。写真ではどこに土塁や空堀があるか見分けがつきませんが、竹藪の中を覗けばそれらを見ることができます。(この時期は竹を刈るべきだろうと思いました)
なお長久保城の空堀には北条家の畝掘と武田家の三日月堀があるそうです。

山中城ー1.JPG
これは三島市にある山中城趾公園内の畝掘です。(山中城は北条家の前線基地です)

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長泉町内の観光スポット-023 愛鷹山の五輪の塔 [観光スポット]

私の住んでいる静岡県駿東郡長泉町は伊豆半島の付け根辺りに位置しています。
伊豆半島は本州で唯一フィリピン海プレートの上にあります。伊豆半島の元は約2000万年前の南海の海底火山でした。そして200~100万年前には南洋に浮かぶ火山島になり、プレートの北上に伴い100~60万年前にその火山島が本州に衝突し、その後も火山活動を繰り返しながら60~20万年前に現在の伊豆半島の形になったそうです。そのため長泉町には昔の火山活動の名残が多く存在します。また長泉町には旧石器時代から人が住んでいた跡が有ったり、鎌倉時代・戦国時代の旧跡や言い伝えが多かったり、近代では丹那トンネルができるまでは東海道本線の三島駅があったので各時代の観光スポットが揃っていてます。
そこで、散歩の途中で立ち寄った町内の観光スポットをここに紹介しようと思います。
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五輪の塔ー1.JPG
先週末に愛鷹山の山中にある五輪の塔に行ってきました。目的地は五輪の塔ですが、道中で愛鷹山特有のブナとアシタカツツジを見つけるのも目的のひとつです。

ガクウツギー1.JPG
ガクウツギー3.JPG
ガクウツギー2.JPG
愛鷹水神社に車を止め、林道を進み桃沢橋から山道に入り、つるべ落としの滝の方向に登ると愛鷹山の板状節理を観察できる場所一面にガクウツギが咲いていて、そこの空気を甘くしていました。

標識.JPG
更に登ると五輪の塔への分かれ道に出ます。ブナとアシタカツツジは五輪の塔に行く途中で見られると聞いていたのでそちらに向かいます。
写真はありませんが稜線に出るまでは、道幅が50cmもなく、踏み外すと一気に数m滑り落ちる様な道で、少し怖かったです。

ブナの新緑ー1.JPG
ブナの新緑ー2.JPG
落ちない様に注意しながら進んで稜線に出ると新緑のブナ林が待っていました。空気が澄んでて冷たくてここまでの疲れが吹っ飛びます。

山深いー2.JPG
途中の開けたところから山を見るとこんな感じで山深いです。

五輪の塔ー1.JPG
五輪の塔ー2.JPG
稜線をさらに進むと五輪の塔に到着です。愛鷹水神社から約1時間半かかりました。
五輪の塔には看板があり、五輪の塔が『裏街道を行く途中で息絶えた身分の高い女性を悼んで建てた塔』であることがわかりました。その頃はこの山道が”裏街道”だった事に驚きです。この道を割と大勢が通っていたとは想像できません。なお五輪の塔に彫られた文字は風化して見つける事すらできませんでした。後日調べたところでは五輪の塔の形式が鎌倉時代のものに近い事が分かり更に驚きです。

しかし、ここまでにもう一つの目的のアシタカツツジを発見できなかったので、少し戻ってつるべ落としの滝に向かいました。

つるべ落としの滝.JPG
愛鷹山山中の標高890mにあるつるべ落としの滝に着きましたが、この日は前日までに雨がなかったこともあり、落差20mもある滝はチョロチョロ流れている程度でした。

アシタカツツジー2.JPG
アシタカツツジー3.JPG まだアシタカツツジも見つけていないし滝もこんな状態なので、”残念だぁ!”と空を仰ぐと滝の上に方に赤い花が見えました。ズームしてみるとアシタカツツジでした。(葉が五枚、メジベが約10本なので間違いないと思います) これで今回の目的は達成したので満足して下山しました。 水のあるつるべ落としの滝については、このBlogの「長泉町の観光スポット-017 つるべ落としの滝」をご参照ください。
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近隣の隠れた観光スポット-009 達磨山 [観光スポット]

伊豆半島は本州で唯一フィリピン海プレートの上にあります。
200~100万年前には南洋に浮かぶ火山島でしたがプレートの北上に伴い100~60万年前に本州に衝突し、その後も火山活動を繰り返しながら60~20万年前に現在の伊豆半島の形になったそうです。そのため珍しい地形・地質も多く、観光スポットになっています。
しかし全国区的に有名な観光スポットは私の紹介は不要ですから、地方区的な隠れた場所を紹介しようと思います。
不定期な紹介になりますがお楽しみください。
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月1回、近くの野山散策を『徒山』と称して行っていますが、このところ天候に恵まれず連続して延期してきました。5月1日も天気は晴れでしたが不安定な天候で急な雷雨もあるとの天気予報だったため決行か再々延期か迷いましたが、久しぶりの晴れなので雨具を用意して伊豆市の『達磨山』に行ってきました。
達磨山は、かつて海底火山だった伊豆半島が火山島になった後、プレートの移動に伴って本州に衝突した直後(100万年前~50万年前)に誕生した火山であり、伊豆半島の南北に連なる大型火山です。(天城山は伊豆半島の東西に連なる大型火山なので、伊豆半島の骨組みの東西は天城山・南北は達磨山と言う事になります)
今回の徒山の目的は達磨山に自生する『マメザクラ』に会う事と『火山時代の痕跡』を見る事と『日本一と言われる富士山の景観』を愛でることです。
徒山の出発点は戸田峠駐車場にしました。
先ずは富士山の景観とマメザクラを求めて、達磨山火山の外輪山と言われる金冠山を目指しました。ゆっくり歩いて約20分で金冠山の頂上に到着です。(思った以上に楽でした)
晴れた日はここから駿河湾の向こうに富士山が長く裾を引いて見えるのですが靄っていて見ることができませんでした・・・目的の一つは達成できませんでした。
金冠山ー3.JPG

金冠山の標高は816mです。
金冠山ー1.JPG

また金冠山にはマメザクラが自生していて可愛い姿を見せてくれるのですが、今回は天候不良で延期になった分遅れたので満開を過ぎてしまい、辛うじて散らずに頑張っていてくれた状態でした。・・・小さな桜の花が頑張ってくれて目的の一つは達成されました。
マメザクラ以外にはドウダンツツジが咲いていました。またウツギやヤマボウシやセンダンが次の出番を待っている様でした。
マメザクラ.JPG

金冠山から駐車場に戻り、今度は達磨山を目指して稜線を歩きました。徒山道(?)の両側はササに覆われていて高原を歩くようです。(達磨山は戸田港の方から吹き上げる風で大きな木が育たないからだと言われます)
達磨山ー11.JPG

途中で戸田の方を見ると戸田が達磨火山と井田火山に挟まれた扇状地で、達磨山が扇の要に位置していることがわかります。なお戸田港で有名な砂嘴は達磨火山と井田火山から風化で削り取られた土砂が駿河湾に流れ込んでできたと考えられています。
戸田ー2.JPG

駐車場から約20分登ると小達磨山に到着です。標高は890mです。
小達磨山.JPG

そこから一気に下りて、いよいよ達磨山に向かいます。道は低いササを切り開いているので開放的ですが風が強くなってきたので隠れるところがなく帽子が飛ばされそうでした。長い登りの階段を進むと火山の名残が見えました。岩は溶岩が固まったもののようです。赤土はスコリヤと呼ばれ火口から噴出した粘り気の弱いマグマの飛沫が空気に触れて冷えて積もったものです。
なだらかな稜線や高原の様な徒山道や周りの美しい景観からは想像できない荒々しい達磨火山の活動の痕跡です。・・・目的の最後の一つも達成されました。
達磨山ー2.JPG

強風の中何とか達磨山の頂上に到着しました。標高は981.8mです。
達磨山ー3.JPG

頂上の看板のすぐ横に『一等三角点』がありました。伊豆半島にある3つの一等三角点のひとつです。(達磨山以外は、万三郎山と暗沢山にあります)
達磨山ー4.JPG

頂上にも大きな木はなく、遮るものがないので靄さえなければ素晴らしい景色を堪能できたのにと残念です。富士山も全く見えませんでした。逆に遮るものがないので今回は強い風には参りました。
空気が澄んで天候も安定した晩秋か初冬にリベンジしたいと思います。
達磨山ー6.JPG
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『自己流でも、先ずやってみました!』(個人的に興味を持ち、何の知識も経験も得ずに”とりあえず先ずはやってみる”と言う無謀なチャレンジのBlog)は、http://shijimaya-try.blog.so-net.ne.jp/ に移動しました。


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近隣の隠れた観光スポット-008 発端丈山 [観光スポット]

伊豆半島は本州で唯一フィリピン海プレートの上にあります。
200~100万年前には南洋に浮かぶ火山島でしたがプレートの北上に伴い100~60万年前に本州に衝突し、その後も火山活動を繰り返しながら60~20万年前に現在の伊豆半島の形になったそうです。そのため珍しい地形・地質も多く、観光スポットになっています。
しかし全国区的に有名な観光スポットは私の紹介は不要ですから、地方区的な隠れた場所を紹介しようと思います。
不定期な紹介になりますがお楽しみください。
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先日、晴れて暖かく風の無い日に沼津市の『発端丈山(ほったんじょうやま)』に行ってきました。こんなに天気の良い日に徒山(登山ではありません、ハイキング程度で登れる山なので徒山です)ができるのは最近珍しいです。
発端丈山ー13.JPG
発端丈山は標高は410mですが実はこの山は凄いんです。
発端丈山はすぐ隣の葛城山と城山と合わせて伊豆三山と呼ばれる山のひつとです。
これら三山は標高はそれほど高くはありませんが、伊豆半島がまだ海底火山だった数百万年前の名残が隆起してできた『火山の根(火山岩頚)』です。つまり伊豆半島が本州に衝突する前後(数十万年前)に活動した大型陸上火山(達磨山、玄岳、天城山、愛鷹山など)や約20万年前以降に火山活動した伊豆東部火山群(遠笠山、巣雲山、登尾山、大室山など)より桁違いに古いのです。
そして、火山の根(火山岩頸)であるために急峻で、やたら登りにくく、低山だからと侮れません。
伊豆三山の縦走では徒山でなくなるので今回は単独に発端丈山に沼津市の長浜から入りました。

発端丈山ー1.JPG
徒山開始直後から感覚的には30度以上の勾配が始まり、途中の休憩所以外はずっと頂上まで急斜面が続きます。登山道にはところどころ綱が張ってあります。この綱が無ければこの地点は下りるのは相当怖そうです。

発端丈山ー16.JPG
発端丈山ー17.JPG
開けた場所や休憩所では駿河湾の素晴らしい景色が待っていました。
富士山が雲に隠れていたのは残念ですが、足元には淡島が浮かんでいました。

発端丈山ー6.JPG
休み休み約1時間半の徒山で山頂に到着しました。駿河湾の向こうには愛鷹山が見えます。

発端丈山ー7.JPG発端丈山ー10.JPG
南側には、近くには大型陸上火山が作り出したなだらかな土地にミカン畑や住宅が見え、遠くには海の水の透明度が高く、海水浴場・スキューバーダイビング場で有名な御瀬崎が見えます。

発端丈山ー14.JPG
西側には、稜線の向こうに葛城山が見えました。

発端丈山ー15.JPG
そのすぐ南側には城山と思われる山が見えます。

写真は撮り損ねましたが、山頂になんとソメイヨシノの巨木がならんで植えられています(自生しているようには見えません)。花見をするには険しすぎるし、麓から見えない山頂にいったい誰が何の目的で桜を植えたのだろうと疑問が生まれました。
また山頂には『オニシバリ』が自生していました(花の色が薄緑なのでナニワズ(黄花)区別できました)し、山菜も多く生えていました(特に目についたのは時期的なこともありますがタラノメが群生していました)。

急坂を下りる帰り道は恐る恐る歩きましたが一度こけました。綱の張ってある場所だったのでズボンが少し汚れる程度で済みました(登る時に気づいた通り、綱があって本当に助かりました)。

到着直前のミカン畑で、おばあさんから『どこに行ってきたの?ミカンを食べて喉を潤して!』と声をかけてもらい、ミカンを4個もらいました。おばあさんと発端丈山や長浜地区の話をしながらその場で坂に抗しながら座って食べたミカンは本当に美味しかった。またおばあさんから『若い頃に山頂に桜を植えて麓からの花見を楽しんだが、最近は山が深くなって麓から見えなくなってしまい残念だ』と聞き、山頂のソメイヨシノの謎は解けました。


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近隣の隠れた観光スポット-007 牛臥山 [観光スポット]

*『自己流でも、先ずやってみました!』(個人的に興味を持ち、何の知識も経験も得ずに”とりあえず先ずはやってみる”と言う無謀なチャレンジのBlog)は、http://shijimaya-try.blog.so-net.ne.jp/ に移動しました*
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伊豆半島は本州で唯一フィリピン海プレートの上にあります。
200~100万年前には南洋に浮かぶ火山島でしたがプレートの北上に伴い100~60万年前に本州に衝突し、その後も火山活動を繰り返しながら60~20万年前に現在の伊豆半島の形になったそうです。そのため珍しい地形・地質も多く、観光スポットになっています。
しかし全国区的に有名な観光スポットは私の紹介は不要ですから、地方区的な隠れた場所を紹介しようと思います。
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一昨日の天気は風は強かったのですが晴天で暖かかったので隣の沼津市にある『牛臥山(うしぶせやま)』に行ってきました。
沼津市は地図上では伊豆半島の付け根にあり(地学的には少し異なるようですが)、浜辺の千本浜から見る美しい富士の景観と駿河湾で獲れる美味しい魚介類(特に干物)で有名です。
ちなみに千本浜には名前を大きく超えた数十万本の松が植えられています。

その千本浜の東端の沼津港から約2km東にあるのが牛臥山です。標高はたったの70mしかありませんが実はこの山は凄いんです。
牛臥山ー6.JPG
伊豆半島ジオパークのボードによると、牛臥山や近くの香貫山・徳倉山は伊豆半島が本州に衝突する前の海底火山だった頃に原型が作られ、その後の衝突に伴って隆起した山だと言う事です。
伊豆半島が本州に衝突するのが今から100万年~60万年前と言われるので牛臥山は100万年以上前の伊豆半島の海底火山時代の記憶と言えます。
ちなみに衝突後に地上火山として活動したのが箱根火山や多賀火山や天城火山です。

牛臥山ー3.JPG
伊豆半島ジオパークのボードのすぐそばの岩です。
この岩は海底火山の名残で流紋岩の溶岩ドームです。
岩肌を見ると溶岩の流れてきた模様(流理構造)や塩類風化による窪み(タフォニ)や波による浸食でできた海食洞が見られます。

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長泉町内の観光スポット-022 桃沢川源流地点 [観光スポット]

私の住んでいる静岡県駿東郡長泉町は伊豆半島の付け根辺りに位置しています。
伊豆半島は本州で唯一フィリピン海プレートの上にあります。伊豆半島の元は約2000万年前の南海の海底火山でした。そして200~100万年前には南洋に浮かぶ火山島になり、プレートの北上に伴い100~60万年前にその火山島が本州に衝突し、その後も火山活動を繰り返しながら60~20万年前に現在の伊豆半島の形になったそうです。そのため長泉町には昔の火山活動の名残が多く存在します。また長泉町には旧石器時代から人が住んでいた跡が有ったり、鎌倉時代・戦国時代の旧跡や言い伝えが多かったり、近代では丹那トンネルができるまでは東海道本線の三島駅があったので各時代の観光スポットが揃っていてます。
そこで、散歩の途中で立ち寄った町内の観光スポットをここに紹介しようと思います。
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長泉町の観光スポットとして今までに愛鷹山にある水神社やうろこ岩やつるべ落としの滝等を紹介してきましたが、その度に通る桃沢川源流に関して報告していませんでした。
改めて紹介します。
愛鷹山は板状節理が発達していて雨水はすぐに地面に浸透してしまうため川の少ない山です。桃沢川は愛鷹山の数少ない川のひとつで、その名の由来は「愛鷹山を八方に刻む放射谷を百沢(ももざわ)と言っていた」から来ていますが、いつからか百ではなく果物の桃になりました。
桃沢川は愛鷹山の断層を流れる川です。深い断層を見ながらそれに沿って水神社から登って行くと数分後に川のせせらぎが突然後方からしか聞こえなくなります。そこが桃沢川の源流地点です。

桃沢川源流ー1.JPG
源流地点の入り口にはヒメシャラの大木があります。大きな瘤の上方にはしめ縄が架かっているのでご神木と思われます。

桃沢川源流ー2.JPG
こんな大きな瘤ができているのですぐに見つけられます。

桃沢川源流ー3.JPG
ヒメシャラの大木の横あたりから藪の中を進むと苔むした枯れ沢に出ます。
ここが桃沢川の源流地点です。ボコボコと水が湧き出していることで有名な柿田川の湧水とは違い、枯れ沢の岩の下で愛鷹山の伏水が染み出て作ったほんの小さな流れが集まりながら徐々に流れを太くして行きます。
なおこの場所にはハコネサンショウウオが生息しています。

桃沢川源流ー4.JPG
この岩の割れ目の下からも水が染み出て、今にも途絶えてしまいそうな流れを作っています。

桃沢川源流ー5.JPG
大きく引き伸ばすとこんな感じです。

この小さな流れが下流に行くに従って集まり、水神社のあたりで滝となり桃沢川になって約10km下流の鎧が淵あたりで黄瀬川に合流します。

水神社の滝や鎧が淵の滝と合流地点については、このBlogの「長泉町の観光スポット-015 水神社」と「長泉町の観光スポット-008 鎧が淵」をご参照ください。

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長泉町内の観光スポット-021 芦ノ湖水神社 (箱根用水・深良用水) [観光スポット]

私の住んでいる静岡県駿東郡長泉町は伊豆半島の付け根辺りに位置しています。
伊豆半島は本州で唯一フィリピン海プレートの上にあります。伊豆半島の元は約2000万年前の南海の海底火山でした。そして200~100万年前には南洋に浮かぶ火山島になり、プレートの北上に伴い100~60万年前にその火山島が本州に衝突し、その後も火山活動を繰り返しながら60~20万年前に現在の伊豆半島の形になったそうです。そのため長泉町には昔の火山活動の名残が多く存在します。また長泉町には旧石器時代から人が住んでいた跡が有ったり、鎌倉時代・戦国時代の旧跡や言い伝えが多かったり、近代では丹那トンネルができるまでは東海道本線の三島駅があったので各時代の観光スポットが揃っていてます。
そこで、散歩の途中で立ち寄った町内の観光スポットをここに紹介しようと思います。
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前回の本宿用水の紹介の中で『本宿用水は1671年に完成した箱根用水の見本となった』と書きました。
今回はその箱根用水(深良用水とも言う)を完成させた5名の元締め、友野与右衛門・長浜半兵衛・尼崎嘉右衛門・浅井次郎兵衛・大庭源之丞を祀る『芦ノ湖水神社』を紹介します。

芦ノ湖水神社ー1.JPG
ここが神社の入り口です。
御殿場線下土狩駅から北北東に徒歩25分程度の距離にあります。
神社の名には芦ノ湖が入り、5名が成し遂げた偉業は箱根用水(深良用水)と箱根(もしくは裾野の深良)が入りますが、この神社の場所は長泉町惣ヶ原の旧箱根裏街道筋に面したところです。
当時、友野与右衛門らの屋敷がここ長泉町惣ヶ原に立ち並んでいたので、その傍らに神社を建立したのだそうです。

芦ノ湖水神社ー2.JPG
神社の入り口に大きく『蘆湖水神』とあります。

芦ノ湖水神社ー3.JPG
境内の前には芦ノ湖神社の由来などが書かれたプレートがあります。その内容を少し調べてみました。
芦ノ湖神社は祭神『みずはのめの命』を主神として、友野与右衛門・長浜半兵衛・尼崎嘉右衛門・浅井次郎兵衛・大庭源之丞の5人を祀り、毎年8月2日に祭典を行っています。
この5人は箱根芦ノ湖の水をトンネルで深良に引く大工事を完成させた元締め達です。
その経緯(概略)は、
駿府の友野家出身の与右衛門は江戸に出て巨万の富を有していたが、たまたま深良の名主大庭源之丞と知り合いになり、水不足で苦しんでいた東駿の農民を助けるべく、芦ノ湖水を引いて新田を開く計画を立て、寛文3年に幕府に用水開発を申請し、寛文6年に開発許可を得て4年の歳月をかけて寛文10年に箱根用水(深良用水)を完成させたとの事です。
なお、総工事費は7,335両2分1朱と言われ、元締め達が投資しました。当初は7年で回収を見込んでいたものの大きく不足し更に2年の回収期間延長してもなお足りず、投資額未回収のままこの用水の元締め支配を終えたと言う事です。(昭和初期にこの箱根用水(深良用水)の話は『箱根風雲録』と言う映画になりました)
その後、元締め達はまもなく消息を絶ちます。碑文によると他国の新田開発のために出郷しそのまま行方不明になったとのことですが、この偉業により裾野・長泉・清水地域は農業用水が確保でき、米の収穫量が増え、安定的に収穫できるようになったので、明治34年にこの用水の恩恵を受けた農民が協議して元締め達が居を構えていた惣ヶ原に神社を立てて、その遺徳に感謝し、その霊を祀ったと言う事です。
ところで、何故当時は芦ノ湖から水を引く必要があったのかと言うと、この地区は富士山溶岩の三島扇状地に位置しているため雨水はすぐに地面に浸み込み慢性的な水不足地域だったからです(昔は『干損場』と言われていたようです)。
ちなみに当時からこの地の地下40~50m付近には数条の伏流水が流下しており、その量は表流水の数十倍もあるのですが、当時の科学ではその存在すら知ることができませんでした。

IMG_0288.JPG
正面の社の前には小さな橋が架かっています。
その橋の下が箱根用水(深良用水)です。
芦ノ湖水神社ー5.JPG
社を正面に見て右側が北になり、用水の上流方向です。

芦ノ湖水神社ー6.JPG
左側が南になり、用水の下流方向です。今でもサラサラと水が流れています。

芦ノ湖水神社-8.JPG
裏に回ると本殿があります。そこに供養塔・地蔵尊・観音像・脇差があると言われますが、この日は開帳されてなかったので見ることができませんでした。
供養塔には「箱根水掘抜元〆水仁」と刻まれているとのことです。水神ではなく水仁として友野・長浜・尼崎・浅井・大庭の5名の名も刻みこんであるそうです。
8月2日の祭典には見せてもらえるようなので来年が楽しみです。

芦ノ湖水神社ー9.JPG芦ノ湖水神社ー10.JPG
この碑は神社の入り口に立っています。何だろうと刻まれた文字を読んでみると水利権に関するものの様です。(漢字ばかりなので読めないところは想像して読み進めました)
それによると、芦ノ湖は相模の国にあるため当時から明治期まで水利権について静岡県側と神奈川県側とで争っていたようです。そして明治30年に大審院の判断で「静岡県側に権利がある」との裁定が下り決着したとありました。

芦ノ湖水神社ー11.JPG
芦ノ湖水神社ー12.JPG
この庚申塔は今回の話には直接関係しませんが境内の中にあったので載せました。
裏には文政十年丁亥と彫られてるので1827年に建てられたものです。
台座には「左 みしま  右 ぬまづ」と彫られています。道標になっていたのだと思います。

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長泉町内の観光スポット-020 本宿用水 [観光スポット]

私の住んでいる静岡県駿東郡長泉町は伊豆半島の付け根辺りに位置しています。
伊豆半島は本州で唯一フィリピン海プレートの上にあります。伊豆半島の元は約2000万年前の南海の海底火山でした。そして200~100万年前には南洋に浮かぶ火山島になり、プレートの北上に伴い100~60万年前にその火山島が本州に衝突し、その後も火山活動を繰り返しながら60~20万年前に現在の伊豆半島の形になったそうです。そのため長泉町には昔の火山活動の名残が多く存在します。また長泉町には旧石器時代から人が住んでいた跡が有ったり、鎌倉時代・戦国時代の旧跡や言い伝えが多かったり、近代では丹那トンネルができるまでは東海道本線の三島駅があったので各時代の観光スポットが揃っていてます。
そこで、散歩の途中で立ち寄った町内の観光スポットをここに紹介しようと思います。
不定期な紹介になりますがお楽しみください。
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長泉町にある”JR駅から日本で最も近くて(下土狩駅から徒歩5分程度)手つかずの自然の雰囲気を残す滝”と言われる『鮎壺の滝』の近くに本宿用水があります。
鮎壺の滝が雄大な上に富士と滝が揃う景観の良い観光スポットなのに比べると本宿用水は地味で目立ちませんが歴史的には価値の高い用水です。
”目立たないけど地元のお宝”探しをしてきました。

本宿用水ー1.JPG
旧国道246号から鮎壺の滝に続く20m程度の坂道を降りたところに長泉教育委員会が作成した説明パネルがあります。
それのよると、本宿用水は1603年に完成した黄瀬川から取水する灌漑用水であることがわかります。
ながいずみ観光交流協会の資料には、長泉町は富士山溶岩の三島扇状地に位置しているので昔から”干損場”と言われ、水不足で大変困っていたそうです(当時は地下に富士山の水が流れているとは知らなかったようです)。そこで当時の領主、天野三郎兵衛康影が黄瀬川に『新井堰』を設けて取水し、本宿に水を引くための灌漑用水を作ったとのことです。

本宿用水ー2.JPG
鮎壺公園の一角には静岡県東部農林事務所により作られた、本宿用水の説明看板があります。
そこには1671年に完成した箱根用水の見本となったとあります。箱根用水は地理や歴史の時間で学びましたし”箱根風雲録”と言う映画にもなったので割と有名ですが、その見本になった本宿用水は残念ながらまったく知られていません。
また本宿用水は川から取水するので川より低くするためにトンネルを掘って作られています。その大きさは人が立って歩けるほどの高さと広さがあり、当初でも508mの長さだったようです。(見難いですが地図の下部の吹き出しの中に絵があります)
前回の長久保城やその城主の長久保赤水の書いた緯度・経度の入った日本地図(赤水図)と同じように歴史上埋もれてしまった業績の再発見です。

本宿用水ー3.JPG本宿用水ー4.JPG
これが新井堰です。黄瀬川に堰を設けて取水する場所が作られています。

本宿用水-5.JPG
これが新井堰から本宿用水への取水口です。

本宿用水ー6.JPG
取水された水は鮎壺公園の北側を流れて本宿方面に向かいます。
ここで不思議な感覚になるのは、道は登りなのに錯覚で水が高い方に流れているように見えるからです。

本宿用水ー7.JPG
ここが用水路のトンネルの始まりです。川より低く掘り進めていよいよトンネルにしないとならなくなった場所です。ここ以降は現在の旧国道246号の下を用水が流れています。現在では696mの長さにもなっているそうです。

なお、この本宿用水より68年後に作られた箱根用水も長泉町の人が作ったことがわかりました。
次回は箱根用水に関する長泉町の観光スポットを紹介しようと思います。

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長泉町内の観光スポット-019 長久保城 [観光スポット]

私の住んでいる静岡県駿東郡長泉町は伊豆半島の付け根辺りに位置しています。
伊豆半島は本州で唯一フィリピン海プレートの上にあります。伊豆半島の元は約2000万年前の南海の海底火山でした。そして200~100万年前には南洋に浮かぶ火山島になり、プレートの北上に伴い100~60万年前にその火山島が本州に衝突し、その後も火山活動を繰り返しながら60~20万年前に現在の伊豆半島の形になったそうです。そのため長泉町には昔の火山活動の名残が多く存在します。また長泉町には旧石器時代から人が住んでいた跡が有ったり、鎌倉時代・戦国時代の旧跡や言い伝えが多かったり、近代では丹那トンネルができるまでは東海道本線の三島駅があったので各時代の観光スポットが揃っていてます。
そこで、散歩の途中で立ち寄った町内の観光スポットをここに紹介しようと思います。
不定期な紹介になりますがお楽しみください。
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長泉町にある『長久保城跡』はまだ整備が行き届いていないために残念ながら観光スポットの有力な候補にとどまっています。(実は長泉町に30年近く住んでいる私もこの城について詳しく知りません)
そんな折、長泉町の郷土史研究者の星屋様から「規模は小さいが長久保城に関して展示するので来ませんか」と声をかけていただき、さっそく出かけてきました。

下長久保文化祭.JPG
長泉町はいくつかの区に分かれていますが、展示会は『下長窪区の文化祭』で行われていました。
入口の看板はいかにも小さな区の住民達だけで行っている発表会の様相を呈していますが、内容は濃いものでした。
長久保城の事を詳しく聞けたのも貴重な経験でしたが、それ以上に『長久保赤水が伊能忠敬より40年も早く作った日本地図(赤水図)』は衝撃的でした。

<長久保城>

長久保城ー1.JPG
資料によると長久保城は鎌倉時代の初期に、当時の東海道の要所である足柄を治めていた竹下氏(藤原家の一門)が築城しました。目的は南の北条氏(現伊豆の国市、源頼朝が婚姻した北条政子で有名)や牧氏の進出を阻止するための前衛防衛基地でした。
時代が下り室町時代になると今川氏により長久保城は一大拠点になりました。その後は戦国時代になるので北条氏・武田氏・徳川氏・豊臣氏・中村氏(豊臣氏の家臣)と支配者が代わり、1600年の関ヶ原の戦い後は徳川氏の命により廃城となりました。
まとめると概略下記の様になります。
鎌倉時代
   1198年:竹之下孫八左衛門が築城したと伝えられる
室町時代
   1417年:葛山氏(今川方)が支配
   1462年:長久保氏が支配
   1531年:北条氏が支配
安土桃山時代
   1579年:武田氏が支配
   1590年:徳川家康が在陣(豊臣秀吉と山中城攻撃の作戦を練る)
江戸時代
   1613年:廃城

なおNHKの黒田官兵衛や真田丸の一場面の小田原攻め(豊臣側が小田原城の北条氏を攻める)の際の豊臣氏側の前線基地が長久保城でした。(北条氏側の前線基地は現在の国道1号線の箱根峠の南に位置する山中城です。豊臣の重臣一柳直末の戦闘の逸話はこのBlog http://shijimaya.blog.so-net.ne.jp/ の「長泉町の観光スポット-006 一柳直末の首塚」をご参照ください。)

長久保城ー4.JPG
実際に長久保城のあった場所を探す起点となるのは、長泉町を通る国道246号線周辺にある『城山(しろやま)』と言う場所(神社・バス停・交差点などの名前になっています)ですが、現在はショッピングモール(名称ウェルディー)や小学校(長泉北小学校)になっているので、当時の本丸や櫓や堀の位置はほとんど見当たりません。

長久保城ー2.JPG
現在の地図と長久保城のあった場所を重ねると、大体の場所が把握できます。相当大きな城だったようです。

長久保城ー3.JPG
発掘調査の結果をもとに約400年前の長久保城の様子をジオラマで作ってありました。写真の上が北、右が東です。
長久保城は南側が黄瀬川が流れており、東側には黄瀬川まで南北に水壕が掘られ、西側は桃沢川と急斜面の崖があり、北側は愛鷹山麓が繋がっていて自然に守られた難攻不落の要塞のようです。
なお二の丸の周りの堀は『畝堀』(堀の中に畝が作られている)で、この作り方は北条氏の出城の山中城にも見られるので一時期長久保城が北条氏の配下にあったとわかります。また本丸の西側の堀は月形になっていますが、この作り方は武田氏のものと同じなので、武田氏の配下にあった時期もあることがわかります。


<赤水図>

長久保氏ー2.JPG
先ず長久保氏の系図ですが、元々は九州の『大友氏』の一族です。室町時代に城主となり名を長久保に改めたようです。


赤水地図ー1.JPG
長久保赤水は12代の城主で地政学を学んでいました。
そのため正確な地図の重要性を理解していたものと思われます。
伊能忠敬も大日本地図を作る際に赤水図を参考にしていたという話を聞いて驚きました。同時に何故社会科の歴史の教科書に載っていないのか疑問がわきました。

赤水地図ー2.JPG
これが赤水図です。
日本全土をくまなく歩き作ったと聞きましたがどうやれば、当時の知識と技術でこの様な地図ができるのか皆目見当がつきません。
また凄いのは緯度と経度が入っていることです。緯度は現在の地図と1度以内の誤差だと聞き、さらに衝撃を受けました。なお伊能忠敬の地図には緯度経度は入っていないとのことです。

赤水地図ー3.JPG
赤水図は精度の高い日本地図だったので、吉田松陰は『赤水図があるので目的の場所に最短に行ける』旨の話をしたとか江戸幕府は『地政学の面から発禁にした』旨の話が伝わっています。
確かに発行していた時期は短かったようですが、この新聞にあるように日本の要所が正確に把握できる正確な地図は地裁学上重要なものなので開国間近の日本を虎視眈々と狙う諸外国は赤水図を入手しては本国に送ったようです。そして現在でも欧米で29点が見つかっています。

赤水図の様に正確な上に緯度経度が入っている地図が伊能忠敬の大日本図より40年も前にできていたことが歴史の教科書にこれっぽっちも載っていないのは何故なのか・・・この疑問は晴れませんでしたが、この長泉町に所縁のある歴史上の重要な人物を新たにひとり知ることができました。

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